ほころびと繕い 2
東京・吉祥寺のOUTBOUND店主、小林和人さんとの対談の2回目です。前回は、ものには数値で測れる機能のほかに「作用」という役割があること、そして意味を求める圧力が高まった今だからこそ、ときには意味から逃避すべきではないか、というお話を伺いました。
三谷 打ち合わせで、捨てられるものと捨てられないものの話をしましたよね。もう一度聞かせてもらえますか。
小林 MITTANの、首元が切りっぱなしのカットソーがあって。もう廃番になってしまったんですけど、それをめちゃめちゃ愛用していたんです。まだ服として着られていた頃に袖の糸がほつれてきて、15センチぐらいの糸束ができた。特別な糸でもない、工業的に作られた普通の糸なんですけど、なんか捨てられなくて。その糸束は、もうTシャツの一部ではなくなっている。かといって、糸として出荷されたときの状態とも全然違う。名もなき、どこにも属さない存在になったわけなんですよね。つまり、意味から切り離されている。そこに清々しさを感じたのかなと思うんです。
エコバッグもそうで。新品のときには何の情緒もないんですけど、使っていくうちに、よく見るとぼーっとしちゃう、ちょっと見ちゃうときがあると思うんですよ。何の変哲もない、普通の木綿の袋が。それは、もともとの均質性が、洗ったり擦れたりしていくうちに解かれていったからだと思うんです。機能としては損なわれていっているのかもしれないけれど、壁にかけてじっと眺めていると、そのエコバッグの表情を窓として、ぼーっとできる。
その糸には、何か個人的な物語があるわけではないんです。ただ、出荷されたときの状態とは違う、というのは一つあって。どんな時間でもいいから、とにかくそこに固有の時間が染みついていると言わざるを得ない。意味はほころびとともに消失していくかもしれないけれど、その分だけ、そこに固有の時間という、代えがたい価値が堆積してくるんじゃないかと思うわけです。
三谷 「ほころび」という言葉についても、聞かせてもらえますか。
小林 ほころびって、人間関係のほころび、とか、ネガティブなイメージが強い言葉だと思うんです。いま話しているのは、物事がすり減っていく、日が暮れていくようなベクトルのほころびですよね。夕暮れになると景色の明瞭さが失われて、すれ違う人の顔が見えなくなる。誰だろう、と。「誰そ彼」から「たそがれ」という言葉が生まれたと思うんですけど、物がすり減って、帯びていた意味が漂白されて、意味から解放されていく。そのプロセスを「たそがれのほころび」と呼んでいるんです。
一方で、ぼんやりした状態から何かが現れはじめる、意味が生まれていく途中の状態も、ほころびと言うんじゃないかと思います。例えば、花がほころぶ、蕾がほころぶ、って言うじゃないですか。固かった蕾が開いていく、その途中は、蕾でもないし、花でもない。どちらにも属さない感じだと思うんです。夜が明けていくときも、薄暗いなかから少しずつ景色が立ち現れてくるけれど、すれ違う人の顔はまだ見えない。「彼は誰」から「かわたれ」という言葉があるそうで、その明瞭性を獲得していく最中を、「かわたれのほころび」と言いたいわけなんです。
たそがれとかわたれは、方向としては真反対だと思うんですけど、意味の完成を頂点として山で表すと、かわたれが上り坂、そして正午を頂点として、そこから日が暮れてたそがれになる。標高で考えると、かわたれとたそがれは同じ高さのあたりなんですよね。そう捉えると、案外矛盾するものでもないのかなと。相反するものが矛盾せずに、二項が同体たり得る。
これは、あまり西洋的な価値観とはまた違うのかなと思っていて。河合隼雄の『中空構造日本の深層』*1では、日本の文化は、空っぽの存在を真ん中にして、相反する両者があるような構造になっている、と。自分のテーマに引き寄せると、意味的に空っぽである存在が、言葉で語れる領域と、言葉にならない質感の領域を媒介してくれるのではないかと考えるわけなんですね。
三谷 今日着てくださっているのは、MITTANの大麻のシャツですね。
小林 今日着ているこのシャツは、2018年ぐらいのものなので、8年ぐらい着続けています。大麻は引っ張りと摩擦に非常に強いので、数年着たくらいでは直しに出す必要はまったくないんですけど、それでも日々の着用の負荷で、いつしか擦り切れて、ほつれて、ほころびていく。眺めているとぼーっとできる状態にはなってくるんですけど、シャツとして着るには、ちょっとビリビリになってしまう。そこを繕ってくれる。ほころびの持っている意味の消失というところを保持したまま、服としての機能をちゃんと戻してくれる。それがMITTANの繕いなんじゃないかなと思うんです。
三谷 このシャツは、10回ぐらいうちで直していると思います。機能としてすごくわかりやすいものだったら、これは黒いシャツですね、で完結すると思うんですけど、このディテールをぱっと見たときに、これは黒いシャツなのか、と抽象しづらくなってくる。意味を消失して、何か違うところに行っているんだと思います。でも、昔の人が直しながら着ていたもの自体は、それほど特殊ではなかったわけで。新しいものこそ完璧だ、という感覚自体も、昔はもっと違う捉え方をしていたのかなと思います。
小林 このシャツは、自分のユニフォームのような位置づけで。店の仕事は肉体労働の側面が強いので、洗って乾いたらまた着て、というのをほぼ繰り返してきたんです。ハレ(晴れ)とケ(褻)で言うと、ケ寄りの存在だと思うんですけど、気づいたら、今日みたいな記念すべきときにこれを着ようと思う、ハレの存在になっていた。ほころびと繕いの集積が、ある閾値を超えたときに、ケがハレに転ずる。反転する。それがすごく面白いなと思って。
三谷 旅先で読んだ、繕いの話も聞かせてもらえますか。
小林 10年ぐらい前に、香川の四国村という、民家を移築して保存している施設に行ったんですけど、小豆島の民家の解説に、ある方がお年寄りの女性を訪ねたときのことが書かれていて。その女性が足袋をちくちく縫っている。「また繕って履くんですね」と言ったら、「いやいや、これはもう履けません」と。「じゃあ、なんで縫っているんですか」と聞いたら、「今まで履かせてもらった感謝を込めて、捨てる前に縫っているんです」と。捨てるものにもかかわらず、いや、もしかしたら捨てるものだからこそ、繕わなきゃと思ったのかなと。繕いが、物を手放すときの儀礼的な手続きになっているのかもしれない、と思ったんです。
文章:MITTAN
- 中空構造日本の深層:心理学者・河合隼雄の著作。日本の神話では、中心に位置するはずの神がほとんど語られないことに着目し、中心が空であることを日本文化の構造的な特徴として論じた。小林氏は、トライバルラグを商うtribeの榊龍昭氏との会話で中空構造の事を知ったという。